「中年仏滅DISCO〜熱湯風呂編〜」とは一生青春だと思い込んでたけど、青春て言葉に想起される熱さやピュアさやトキメキや土手で喧嘩やラブレターを書くことも貰うことも一切無くなり、「あ。青春とっくに終わってんじゃん」とやっと気づいたアラフォーおじさんが、それでも音楽に救われる日々と「青春に似たそれっぽいもの」に思いを乗せて綴るかなり暑苦しい「自ら入る熱湯風呂的音楽コラム」です。
(1)銀杏BOYZと大森靖子-死にたい朝と夜に流れる「魔法ではない音楽」の魔法
銀杏BOYZと大森靖子。
大嫌いな人は生理的に無理と答えるだろうし、一生必要ない二組だと思う。しかしそれは逆を言えば、必要な人にとってはこの二組は命綱であり延命薬であるということでもある。「何を大げさな」と鼻で笑うなかれ。実際、この二組がいたから今でも生きているという人は驚くほど存在するはずだ。それは「この二組が奏でる音楽が素晴らしいから」なんて綺麗事ではなく(いや実際素晴らしいのだけど)、リアルに死のうとしたけど、銀杏が、大森が、「死ぬぐらいなら生き恥晒したほうがマシだ!」と目の前でその首くくり用の縄や切ろうとした手首の前にあるナイフや飛び降りるために踏み出した両足を、あたかも目の前でガッと抱き寄せて素手で止めてくれたという、言うなればそういうことなのだ。
偏見100%で誤解を恐れずに言い切るが、つまり一定の幸せを日々感じているような人には、この二組の音楽は必要がないのだ。それぐらい切迫した「生きるか死ぬか」なんて、普通に暮らしてる人達にはほぼ関係のないことだろう。2018年の警察庁の発表によると去年の自殺者は2万1140人で、前年より757人減っており、8年連続の減少だという。しかしその一方で未成年の自殺者は増加しているという。
「俺の時代はよー」なんて酒臭い口臭でほざく爺さんには絶対ならないと決めていたが、最近は当たり前のように自分の時代と若者の時代を比べてしまう。今の世代はかなり熱が低いと感じる。熱とは体温のことである。話していてもバカじゃない。いや、本当はバカだったとしてもバカではありませんと理論武装するヤツが多い。バカでいいのに。バカの方が楽なのに。むしろバカの方が好きだ。なぜなら俺もバカだからだ。というより大人だってほとんどがバカばっかりだ。
20個下なのに筆者よりも15個ぐらい上だっけ?と思うこともある。もちろん若い世代が皆低温であるなどという暴論は、例えば朝の占いで最下位のおうし座が全員「何をやってもうまくいかない日!ラッキーパーソンは赤い口紅の後輩」であるはずもないことと同一のナンセンスであることはわかっている。わかってはいるがこやつは顔を真っ赤にして怒ったり、泣いたり、感情を表に吐き出すことがこれから先もあるのだろうか?と本当によく思うのだ。
SNSとかLINEとかYouTubeとかグラブルなんかをスマホかパソコンで寝る寸前まで一日中眺め、それが自分にとっての生の実感と思い込んで生きている世代の一部が、リアルな感情を吐き出す熱を帯びたこの二組にすがって生きているというのは皮肉と言うよりもむしろ必然のように思う。未成年者が死を選ぶことと低温な生き方を同列で語るのは見当違いかもしれないが、日々感情を吐き出す場所が本当になくて、初めてのそれが死に向かってしまったという想像は悲しいかなつく。
この二組が初めてのツーマンライブを行なった。2018年2月27日火曜日。場所はお台場のZepp Tokyo。平日の夜だというのにたくさんの人でごった返していた。始まる前から今夜は伝説になるという空気が充満していた。
実際客電が落ち、峯田がいきなり登場して「駆け抜けて性春」のイントロを奏でた瞬間にそれは現実になった。後ろでゆっくり見ようと思っていた筆者のような高齢者もイントロだけでステージ前に走っていた。YUKIパートで大方の予想通り大森が登場し、会場の熱は一曲目にして頂点に達した。
その後の大森、銀杏、アンコールでの再び二組による「夢で逢えたら」まで、その凄まじ過ぎたライブの模様に関しては大森靖子自身のブログを是非参照して欲しい。
終演後、久しぶりにライブハウスで汗だくのTシャツ姿でヨロヨロと出口に向かう筆者の後ろに同じく最前の方で揉みくちゃにされながら見ていたのであろう汗だくの銀杏Tシャツの少女が二人いて、その二人のやりとりが最高だった。
少女A「ヤバかったね」
少女B「うん。ヤバかった」
少女A「ヤバかったんだけど」
少女B「ね?ヤバかったよね?」
少女A「あー、ヤバかった」
少女B「ヤバかった〜」
少女A「てか、ヤバくなかった?」
少女B「ヤバかった!」
脚色なし。
本当に四回繰り返したのだ。そしてコレは少女達の語彙の少なさではない。本当にそれしか言えなかったのだ。筆者も心で深く頷いていた。「ヤバかったよね」と。本物の表現に出会うと恐らく人は言葉が出なくなるんだと思う。ぐうの音も出ないというやつだ。
悔しさに下唇を噛んで肩を落として帰る帰り道。銀杏と大森がイヤホンから爆音で流れ出す。夕焼けを目の前に彼らの歌を聴く時、魔法ではないはずの音楽の魔法に気づく。「俺は俺なんだからこれでいいのかもしれないな」なんてことを本気で思ってたりするのだ。音楽に救われる。それってマジで凄い事だ。
俺より一回り上の諸先輩方は言うだろう。
「私らの世代だって(吉田)拓郎と(中島)みゆきがいたぜ」
確かに拓郎とみゆきにも時代に弾かれた人達の魂の咆哮と呼べる楽曲は多数ある。
銀杏と大森は現代の拓郎とみゆきなのかもしれない。
最後にどうかそこの君よ。どうせ死ぬつもりならばその朝に原因である学校や会社に行かなくても全然いいからイヤホンでこの二組の曲を爆音で聴きながら街を歩いてみて欲しい。また人身事故で止まった通勤電車の中でそう願う日々である。
あー読み返したけど一回目から暑苦しかった。
こんな感じですがしばらくお付き合いください。
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